さて、今日は私のすぐ下の弟、西田善彦のことを少し書かせてください。
私たちは4人兄弟(ほんとは5人兄弟です。姉と私の間に、晴俊という私の一才上の兄がいたのですが、生後7日で夭逝しています。医療が今ほど充実していない当時は、こういうことはよくあることだったみたいです。ですから戸籍上、私は次男です。)
姉が昭和24年、私が27年、善彦が29年、篤生(専務)が31年の生まれです。
みなさん、不思議に思われたかもしれません。三男の篤生が専務で、次男の善彦が「新鮮市場」の店長であることを。善彦は、急がず焦らず自分のペースで生きていたい、そんな男です。
善彦は、とても可愛い赤ちゃんでした。当時の写真を見ると、ふっくらとして、にっこりほほ笑むその笑顔は、今で言えば「福くん」という感じでしょうか。
彼と私の性格は正反対。私は、ごそごそごそごそ落ち着きのない子供で、前向き積極の「Oh!!モーレツ」派。彼は、おっとりマイペースで、どちらかといえば「のんびり行こうよ、俺たちは」派。(40代以降の人はわかるでしょ。)
成人しても、それは変わりません。彼はリーダーというものが、ほんとにイヤみたいで、店長になるのさえ嫌がっていました。そうもいかないので無理やり店長にしたというのがほんとの所です。
私たち姉弟4人の進路は、ほぼ父が決めました。父の望む形の道を進むことになりました。
高校を卒業した私に、父は待っていましたとばかりに、魚屋を継げと言い、大学入試に落ちた私は、抗うすべもなく魚屋にさせられました。
善彦の場合は、当時、父は寿司屋をやりたくて、高校卒業後、酔心調理師専門学校へ行かせました。家を出て広島に住む善彦が、とても羨ましかったのですが、父が見つけてきた部屋が、段原の小路を入って、もっと狭い、道ともいえぬ通路を行った先の薄暗いじめっとした長屋。この時ばかりは、荷物を置いて帰る時、さすがに可哀そうだなと思いました。もっとも、すぐに自分で探して、普通のアパートに引っ越したみたいですが。
三男の篤生(専務)は、高校卒業後、大阪でアパレルの仕事につきたいという希望を持っていましたが、父の体も思うようでなく、庄原に残り私と魚屋になりました。姉は、広島の己斐の超繁盛している八百屋さんに嫁ぎ、嫁ぎ先でも魚を売るようになりました。
善彦は専門学校を出て、近鉄宮島ガーデンに就職、ここに熊田みどりという女子大生がアルバイトに来ていて結婚します。たぶん彼が23歳の時です(因みに私が結婚したのは34歳です)。しばらく宮島の先の大野に住んでいました。そんな時、我が家の一大転機が訪れます。
庄原にできるジョイフルながえというショッピングセンターに父が出店を決意したのです。周囲の猛反対のなか、父は私たち3人の男の子を武器に勝負にうって出ます。善彦も当然呼び戻されます。
こうして昭和54年7月19日、庄原にジョイフルながえがオープンし、私たち兄弟3人と善彦の奥さんのみどりさんの4人で、その店が始まりました。私27才、善彦25才、篤生23才です。その時、父(54才)は店に青果売り場も併設していたので、みどりさんが、それを担当しました。彼女は結婚するまでデパートに勤めていましたが、帽子売り場で、野菜なんか売ったことはありません。私たちとて、父が我流で母と始めた魚屋で働いていただけで、私も篤生もどこかで修行したわけでもありません。
オープンしてすぐ、まったく売れない日が続きました。私は仕入れもあったりするので、店は善彦夫婦とパートさんで守ります。可哀そうだったのは、みどりさんでした。生まれたばかりの子供もいるのに、やったことのない野菜の仕入れ販売を任され、ほんとうに大変だったと思います。
一年間は、いつつぶれるのかという不安と、休むに休めないしんどい日々でした。そんなジョイフルの立ち上がりを支えたのは善彦夫婦でした。彼は午(馬)年ですが、牛のような辛抱強さがあります。
その一歩ずつの歩みが、その後の急成長につながりました。
あれから33年、善彦が57才で退職。彼らしい引き際です。
世の中は様変わりしました。会社も父と母の個人商店から、売上25億円、社員数500名になりました。創業の時のメンバーはほとんどいなくなりました。その分、若いスタッフが意欲を漲らせています。
「人生到るところ青山あり」。残る人も去る人も、今を見据え、先を見据えて歩き続けねば・・・・。
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